近江にのこる淡海公藤原不比等に関わる伝承地をまとめています。
竹生島宝厳寺蔵(宝物殿展示)面向不背の玉 長浜市早崎町
謡曲『海人(海士)』で知られる「海女の玉取り伝説」(『志度寺縁起』を典拠とする)に登場する不比等ゆかりの「面向不背の玉」とされるものが竹生島宝厳寺に伝わっている。
無為山安楽寺 長浜市細江町
和銅年間(708~715)に不比等の領地(別荘地)があった場所に、弘安2年(1279)、九条家(藤原北家の嫡流の一つである公家)が安楽精舎と呼ばれる禅宗寺院を建立したのをはじまりとする。
慈眼院 千代姫塚(玉ノ塚) 彦根市佐和町
不比等は土地の神官の娘との間に千代姫という娘を儲けたが、高音丸と時雨丸という笛の名手の兄弟との恋の悩みから病を得て亡くなってしまった。その菩提を弔うため、養花院という大寺を建立し、現在法灯を継ぐのが慈眼院であるという。境内の墓地にたつ一基の五輪石塔が千代姫の墓であると伝わる。
彦根市安清町~芹川町~里根町~古沢町一帯
「彦根古図」や「彦根古絵図」と通称される、彦根城築城以前の彦根一帯の景観を描いた絵図が多数伝わっている。そのなかには、彦根山彦根寺が不比等の次男房前の守り本尊である金の亀に乗った観音像を祀って養老4年(720)に創建されたことが記されるとともに、淡海公不比等及び房前ゆかりの場所が描き込まれているものがある。「淡海公御領所」、「淡海公御台所の御殿地」、「淡海公姫君の姫塚」、「房前公の御殿」、「房前創建の猿田彦大明神」などがそれで、現在の彦根市安清町~芹川町~里根町~古沢町一帯にあたる。安清町には「御殿跡」、芹川町には「長者屋敷」という不比等または房前の御殿や屋敷の跡だと伝わる地名がのこるという。
都恵神社 彦根市竹ヶ鼻町
千代姫は不比等が近江の国守であった頃、竹鼻の都恵神社の神官・安部民部卿行全(ゆきちか)の娘に産ませた子であるという。
八幡神社・淡海公御墓 愛知郡愛荘町愛知川
八幡神社は江戸期には若宮大明神と称し、聖徳太子ゆかりの神社と伝わり、不比等が養老元年(717)に社殿を改修、または養老年間(717~724)に不比等が創建したという。元正天皇の行幸の際には神領を賜ったという。
八幡神社境内本殿後ろ側に「淡海公御墓」と刻まれた石碑がある。もとは北西約500mに位置する愛知川町字御墓本宿に祀られていたが、大工場進出のため昭和42年(1967)3月、現在地へ奉遷された。享保8年(1723)に記された『御墓略書』によれば、当墓碑は不比等の領有地であった本宿に往古より存在するものであるという。墓碑がもとあった場所は「御墓遺跡」と呼ばれ、工場建設に先立つ発掘調査により、信楽焼の骨蔵容器と天保10年(1839)に墓を修繕したことを記す瓦製墓記などが発見されている。
恵日山妙楽寺 東近江市伊庭町
持統天皇3年(689)、不比等の発願で兄の定慧により開創されたと伝わる。
日牟禮八幡宮 近江八幡市宮内町
持統天皇5年(691)、不比等が参拝に訪れ「天降りの 神の誕生の 八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」の歌を詠み、この歌に因んで「日群之社」から「比牟礼之社」に社号を改めたとされる。
奥(瀛)津嶋神社 近江八幡市沖島町
和銅5年(712)、元明天皇の勅命を奉じて不比等が社殿を創建したと伝わる。神社の起源は舒明天皇(在位629~641年)時代にあるともいわれる。
五社神社境内社 子安神社・子安神社 奥宮 近江八幡市牧町
文武天皇の慶雲3年(706)、不比等が水茎の岡に子安権現を祀り、宇賀山香仙寺を創建したことに由来する。
藤ヶ崎龍神社・水茎の岡 近江八幡市牧町
三上山の大百足を退治した藤原秀郷(俵藤太)によって、家祖である不比等が在世時に屋敷を構え宇賀山香仙寺を創建したゆかりの地に龍神が勧請されたことに由来する。
野村神社 近江八幡市野村町
近江国の領主であった不比等による勧請と、在地氏族の篤い敬神の念により、養老2年(718)に創建されたと伝えられる。
⇒ 野村神社 詳細
御上神社 野洲市三上
元正天皇の養老2年(718)3月15日、不比等が勅命を拝し、榧木原と称された現在の鎮座地に飛弾の工匠を造営使として社殿を造営し、三上山より祭神を遷祀させた。
矢放神社 野洲市吉川
養老元年(717)、不比等が御上神社造営の余材を用いて社殿を造らせた。
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